まだ約束の時間には早い。 でも、じっとしていられない。
在学中、名雪智は囁きの樹の下へ来るよう、様々な人間から誘われた。それら全てに一度も応えなかったのは、好きでもないのに出向く事の方が失礼だと思ったからだ。けっして悪気があった訳ではない。
そのせいで嫌な思いもした。
しかしそうした遠回りの先に、今の自分があるのだと思う。
自分から、囁きの樹に人を呼び出すのは、今日が最初で最後だ。
あと数メートルの所まで来た時、樹の陰が動いたように見えた。
向藤原浩介だった。
「……どうし、て」
「呼んだのは智の方だろう」
「まだ早いよ」
「今日呼ばれなかったら、俺が呼び出すつもりだった」
「浩介」
「だから、せめておまえより先に来て、待っていようと思ったんだ」
率直にそう言われてしまうと、何と返して良いのか分からなくなってしまう。智は彼と視線を合わせる事が出来ず、隣に並ぶようにして立った。
何から話そうか? 昨夜あんなに考えたのに。
こうして浩介の傍にいると、どうしてもあの不思議な転校生の事を思い出してしまう。
智には学園祭最終日になってやっと分かった事だけれど、彼らは浩介が雇った‘なんでも屋’だった。
「あの二人、どうしてるかな?」
「……火群と栩堂か」
「うん」
「俺もさっきまでそれを考えてた」
彼らは、浩介の依頼以上の仕事をしてくれたのだと思う。そうでなければ、いま浩介と自分が此処にいられる訳がなかった。
「連絡先とか分からないの? 浩介が指輪の事を頼んだんでしょう。 東京?」
「うん。 東京だったけど、直接彼らが仕事を受けたんじゃない。 もっと落ち着いた感じの……」
「仲介者がいたんだ? ……きっと、何を聞いても教えてもらえないよね」
栩堂は明るくて元気で勘が良くて――
「会いたいか?」
「もう一度ちゃんとお礼が言いたいな、って思うんだ」
――もうひとりの火群の方は、ちょっと浩介に似ていた。
枝々の間を、暖かくなり始めた風が吹き抜けて行く。この時期の葉は若くて容易に光を通すから、足元の草地はまるで印象派絵画のようだ。
「綺麗だね」
そう言って見上げると、頭一つ高い浩介と、この日初めて向かい合う事が出来た。
だが、今度は彼の方が視線を逸らしてしまう。
「浩介?」
「ああ…… そうだな。 綺麗だ」
「どこ見てんの」
「好きだ」
「……浩介、ずるいよ。 さっきから僕の先回りばかりしてる」
「ずっと好きだった」
「あの、前の事件の……頃から?」
「それよりずっと前から智を見てたよ」
「前って、いつ?」
「初めて会った時から」
智は虚を突かれて息を呑み、再び言葉を失った。
「智?」
「そんなに前から…… そんな事、いま言われても」
「でなきゃ、あの指輪を盗み出してくれなんて無茶な依頼、する筈ないだろう」
「……うん」
ほんの数ヶ月前の出来事なのに、こうしてみると全てがひどく懐かしい。
「ねぇ、東京へ行ったら二人に会えるかな?」
「まさか。 こんな田舎と違って東京は広いぞ。 人も多いし」
「でもあっちの大学に四年も通うんだよ。 それだけ住んでれば会えるかもしれない」
「智」
「なに?」
浩介の真剣な顔が真上に見える。
「……こう、すけ」
「こういう時は、目を瞑るんだ」
眼鏡がキスの邪魔になるなんて、ただの思い込みだった。
もし、また栩堂に会えたら
あれは嘘だと謝らなければいけない。
2006.12.19