「四月一日ぃ、本当にアパート帰っちゃうのぉ~」
侑子さんが空の徳利の首をつまんで振りながら、甘ったれた声を出している。
「明日、学校で必要なものがあるんですよ。 それにここ何日か帰ってないから、冷蔵庫の中を整理しなきゃいけないし、管理人さんに顔見せておかないと心配してるかもしれないから」
「あーあー、もう分かった分かった。 行っておいで。 でもね、泊まるんだったら……」
彼女は必要以上に顔を近付けて声を潜めた。
「気をつけなさいようぅ~」
「な……何です、か?」
「ん、ふっふっふっふっ…… 怖かったら、百目鬼君でも呼べばぁ」
「どっ、百目鬼ぃ~!? 厭っすよ! 大体、なんで自分ち帰るだけの事で、いちいちアイツを頼らなきゃならないんすかっ!?」
「ま、そりゃそうよね。 百目鬼君も何かあるたびに付き合わされたんじゃ堪んないわよねぇ、こんなのに」
ビシッ、と鋭い音を立てて、四月一日の額にデコピンが決る。
「いっ、てええぇぇーっっ 侑子さん、なんなんすかーっ!!」
あまりの痛みに涙が滲み、四月一日はその場に蹲った。
「でもね、四月一日。 痩せ我慢は禁物よ。 分かったわね」
まだそれ程遅い時間ではないと言うのに、周囲の民家は寝静まってでもいるかのように音もなく、先に見える街灯は今にも切れそうに瞬いている。
今日はなんだか、アパートへの道程が長く感じる。
四月一日は僅かばかり後悔し、後悔したのを打ち消すようにブンブンと首を振って足を速めた。
やっとの思いで帰り着くと、四月一日は先ず、玄関先にある集合型郵便受けに溜まっている投げ込みチラシを処分した。
そうしてから一階にある管理人さんの住まいを訪ねてみると、珍しい事に留守のようだ。
時計を見ると九時まであと少し。 こんな時間にいないなんて、何か急の用事でも出来たのかもしれない。
挨拶は、明日、学校へ行く前にしようか。
踵を返し、四月一日は階段へ足を向けた。
ここの蛍光灯も瞬いている。
――気持ちが悪い
そう思った途端、乾いた音を立てて階段の電気がスパークして消えた。
折り返すように曲がった踊り場から先が、ねっとりとした闇に沈む。
踏み出すと、ギシリと音がした。
いつもの事だ。 このアパートは古いんだ。
階段は以前からこんな軋み音をたてていたじゃないか! 四月一日は自分を鼓舞して上っていった。
ギシッ、ギシ…… ギシッ、ギシ、ギシ、
誰かがついて来る? ゾッとして振り返った。
当然のように誰もいない。
驚いて手を付いた白灰色の漆喰壁が、今は墨を流したように黒く見え、その禍々しさに慌てて手を退いた。
四月一日は残りの数段を一足飛びに駆け上がった。
幸い二階の廊下は明るく、四月一日はホッと息をついて部屋の鍵を開けた。
大丈夫だと自分自身に言い聞かせ、でも何処か落ち着かず、見てはいけないと思いつつも振り返らずにはおれなかった。
そして振り返ってしまった自分を、四月一日は呪った。
足が―― 膝から下だけの足が一対、階段の上にあった。
ぎゃあああぁぁぁぁーっ!!!
気が付くと、四月一日は布団の中にいた。
あの後部屋に駆け込んで、慌てて引きずり出した布団を頭から被って、それから……
そのまま眠ってしまったのだろうか? そんな筈は無い。 自分はそれほど図太くは無い。
しかし、恐る恐る顔を出してみると、空気は深夜のそれの匂いがした。
カーテンの合間から月明かりが差している。 外からは何の音もない。
大体、足だけが見えるとは何なのだ。 お化けは足が無いものだろう?
心の中で悪態を付くと、ドアの向こうでミシリ、と足音がした。
ミシリ、ミシッ……
ドアは閉まったままなのに、足音だけが部屋に進入して来た。
体は金縛りにあったように動かない。
足音だけが、寝ている四月一日に近付いてくる。
布団の端が少しだけ沈んで、また元に戻った。
歩くような速さでその凹みは四月一日の寝ている周りを一巡し、止まった。
何か良くないモノが、自分の顔を覗き込んでいるのが分かる。
―― キ エ ロ
ぐぅっ、と息が詰まった。 体は動かない、声も出ない。
――キエテシマエ
消えたくない。
僕のお父さんが、お母さんが、
「消えないで」と言ったんだ。
そして此処には侑子さんが、ひまわりちゃんが、
百目鬼だっている。 だから、僕は――
消えない。
僕は消えない。
ボ ク ハ キ エ ナ イ