続いていた雨がようやく上がった。
梅雨も中休みと云ったところだろうか。
早く朝食を済ませて出掛けたいと云うのに、昴流の姿が見えない。
仕方なく、星史郎は大きな声をあげた。
「昴流君、昴流君!」
すると庭からカタカタと軽快な音がして、紬の単(ひとえ)を着た昴流が
ひょいと顔を覗かせた。
この着物は星史郎が中学生の頃に着ていたものだが、
裄も丈も、今の昴流に丁度いい。
「呼びました?」
「ええ、午前中の内に、君の服を買いに行きましょう。
…ところで、庭で何をやってたんですか」
「池の鯉を見てました」
縁側についた手に、豆麩の袋が握られている。
そう言えば、2~3日前も傘を差して水辺にしゃがみ込んでいた。
鯉なんかの何が面白いのか、星史郎には理解できない。
「何ですか?」
昴流はそう言いながら、庭下駄を脱いで上がって来た。
星史郎の目には、その真っ白な素足が何故だか痛々しく映った。
しかしそんな事はおくびにも出さず、わざと憮然とした声を出す。
「君と、お麩を捜していました」
今朝の昴流は、星史郎の不機嫌そうな声すら意に介さないようだ。
「これですか?」
と、手にした袋を指差して笑っている。
「そう、それです」
「朝食ですね。お手伝いします」
そう言うと星史郎の前に立ち、台所へ向って歩き出した。
朝は苦手な筈なのに、今日はやけにテンションが高い。
「何をしましょうか?」
昴流は洗った手を拭き、袖から紐を取り出した。
襷(たすき)を掛けるつもりなのだろう。
黙って見ていると、星史郎の想像どおり
いつまで経っても、たかが紐一本に悪戦苦闘している。
「はいはい…貸してご覧なさい」
仕方なくそれを取上げて輪を作り、左肩が上になるように掛てやる。
そして輪の下方に右袖だけを絡げてやった。
いわゆる片襷と云うやつだ。
昴流に火を使わせる気はないので、これで充分だろう。
「これくらいなら出来るでしょう?覚えておくと良いですよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、さっきのお麩をぬるま湯に浸して、絞って…」
「はい!」
小学生のような、良い返事だ。
「少量で良いんですよ」
多少お間抜けなところがあっても、このくらいは任せても大丈夫だろう。
星史郎も自分の仕事に戻り、香の物を切り始めた。
後ろでは昴流が、ご機嫌で話し続けている。
「普通の着物にも、式服の袖のように、始めから紐が付いていれば
良いと思いませんか? あれ、絞り上げて、背中で結ぶだけで済みますでしょう?襷より簡単で便利ですよ」
「ええ、そうですね。 …それ、出来たらこれに入れて下さいね」
生返事を返して、二つ並んだ椀を盆ごと昴流の方に押し遣る。
「鯉がね、僕を覚えましたよ。
僕が池を覗き込むと、キンちゃんとミケが寄って来るんです」
「なんですって?」
キンちゃん? ミケ? …なんだそれは?
「金色の鯉がキンちゃん。白地に赤と黒の錦鯉がミケです」
うちの鯉は、いつからそんな名になったのだ。
鯉にミケ? 猫じゃあるまいし…
「毎日、餌をやってた甲斐がありました。
でも、なんでお麩なんて好きなんでしょうね」
「鯉は、パンだってご飯粒だって食べますよ。
…さあ、僕達も朝食にしましょう」
星史郎はお櫃を昴流に渡し、自分も調理台の上に並んだ料理を運び始めた。
「いただきます」
いつになくニコニコ顔の昴流が、星史郎の前に座って手を合わせている。
やはり何かが変だと思う。 なんだろう?
箸を手にして汁椀に目を遣ると、きちんと蓋が載っている。
いつもだったら朝からここまではしないのに、昴流がわざわざ出したのだろうか。
だが、理由はすぐに分った。
蓋を開けると、爪ほどの大きさの豆麩が、椀の中一杯に浮いている。
「………」
声を失った星史郎の前で、とうとう昴流が笑い出した。
見ると彼の椀の中は、極めて普通に、数個が可愛らしく浮いているだけだ。
「昴流君… 僕まで餌付けするつもりですか?」
星史郎はいつまでも笑い転げている昴流を無視し、自分の分を平らげた。
「10時には家を出ます。いいですね」
それだけ言い置いて、ひとり、先に立ち上がる。
おかしい。 昴流は普段、こんな悪戯をしたりはしない。
何か隠しているのかもしれない。
そんな事を考えながら出掛ける支度を終え、
応接間でコーヒーを飲んでいると、昴流がやって来た。
時計を見ると9時50分。 彼も着替えを済ませている。
この金沢へ来た時の服装だ。
黒のTシャツにジーンズ、手には薄手のコートを持っている。
「コートは要りませんよ」
「そう、ですか?」
先程までの、退嬰した様子は微塵もない。
「うちの中にいると判らないかもしれませんが、もう暦の上では夏です」
「…水仙や桃の花まで咲いているから、まだ春先かと思ってた」
昴流は小さな声でそう言うと、手にしたコートを椅子の背に掛けた。
「怒ってます?」
「いいえ」
星史郎が手を延べると、昴流はそれを大事そうに抱いて隣に座った。
「今日の昴流君は変ですね。何かありましたか?」
昴流は上目遣いに星史郎を見、何か言い掛けたが
言葉を発する事無く黙り込んでしまった。
「どうしたの?」
「…あとで話します」
「あとで?」
コクンと頷く横顔が可愛らしくて、思わず傍に引き寄せる。
だが昴流は拒むように立ち上がってしまった。
「そろそろ行きましょう」
いま話したくないと言うなら、これ以上聞いても意味は無いだろう。
昴流は星史郎より頑固なのだ。
自ら話し始めるまで待つしかない。