「昴流君」
星史郎さんに呼ばれ、僕は読み掛けの夕刊を置いて立ち上がった。
ベランダで煙草を喫っている星史郎さんの隣に立つと、夏の終りの風が心地良い。
「なんですか?」
「ほら…」
煙草の先が指し示す方を見ると、いつもは闇に暗く沈んで見える辺りに、無数の朱い光りが揺れている。
「あれは… 祭礼ですね」
「行ってみましょうか?」
「え?」
「そんなに驚かなくても…」
そう言って苦笑する星史郎さんに促され、僕達は宵闇の神社へ赴いた。
普段はどこか淋しささえ感じるような、都心の商店街にも提灯が揺れ
テープレコーダーから流される祭囃子と共に、人波が参道へと流れている。
星史郎さんとはぐれないように気を付けて、鳥居をくぐり境内へ続く急な石段を登りきった。
「随分、人が出ていますね」
そう言って振り向いた星史郎さんの笑顔と、屋台を照らすアセチレンランプの強い光に目が眩む。
「…昴流君、気分でも悪い?」
「いいえ。 お祭りなんて、久し振りだなって…」
「風船でも買ってあげましょうか?」
「いりませんっ それよりも、先にお参りをしなければ」
そう言って今度は僕が前に立った。
― お祭りなんて、本当に何年振りだろう?
最後は、東京で暮し始めた年の夏だろうか…
参拝した後、星史郎さんは本当に風船を買って僕の手首にそれを括りつけた。
「これで昴流君が迷子になってもすぐに見付けられますね」
星史郎さんはそう言って笑い、夜店を端から順にひやかし始めた。
ヤキソバ、たこ焼き、りんご飴、ミルクせんべい、あんず飴…
次々に僕に手渡して、自分は涼しい顔をしている。
「どうやって食べるんですか?」
いっぱいになってしまった両手を見ながら抗議すると、星史郎さんは得意げに神社の奥を指差した。
「良い場所があるんです」
行って見ると、そこは表とは打って変わって静かな空間が広がっていた。
僕達は高校生くらいのカップルの横をそっと通り過ぎ、拝殿の裏へと廻る。
二人並んで石に座り、声をひそめて話しをし、懐かしい祭りの味を楽しんだ。
全部食べ終わった時 ―
北都ちゃんが 「東京のお好み焼きは、いまひとつね!」 と言った声が胸の内に甦った。
「何を考えているんですか?」
アニメキャラクターのお面を頭に載せた星史郎さんが、真面目な顔をして僕を見ている。
彼は答えられずにいる僕を尻目に、笑顔を見せて立ち上がった。
「昴流君、喉が乾いたでしょう? 最後はかき氷で締めましょうね」
「え、ええ… そうですね。 僕もいま、冷たい物が欲しいと…」
手を引かれ、立ち上がろうとしたその瞬間、手首に結ばれていた糸が解けて、風船が夜空に舞い上がった。
「伝えて欲しい事があるんだったら、あれに頼んでみたら?」
そう聞こえた気がして振りかえる。
「なんて顔してるんですか? …で、昴流君は何にします?」
「え…」
「かき氷ですよ。イチゴミルク?」
「僕は… メロン、かな?」
「金時ミルクにしなさい」
「ええっ?! 今は、サッパリしたものの方が…」
「だめです。 かき氷にコンデンスミルクは必要不可欠です」
「なんでっ…」
「僕が好きだからです」
きっぱりと言い切った星史郎さんと共に、表の人混みへと戻る。
樹の下でクスクス笑っていた可愛らしい2人は、とうに消えていた。
賑やかな灯りの下で、金時ミルクを食べながら夜空を振り仰ぐ。
そうして、もう見えなくなった風船に伝言を託す。
― 北都ちゃん? 今夜のお好み焼きは悪くなかったよ。