乾杯の声と共にフルートグラスのシャンパンを一気に空けると、智秋は前を向いたまま言った。
「帰る」
閨閥会社のひとつが創立80周年を迎え、旧李王家の邸宅だったゲストハウスを借り切ってのパーティーだった。必ず来るようにと言われた為に仕方なく智秋も出席したが、親しく話をする相手がいる訳でもなく、退屈極まりない。
「宜しいのですか?」
自分よりずっと背の高い祈津の声は、頭上から降って来るように聞こえる。智秋は何も答えずに歩き出し、来客に愛想笑いを大盤振る舞いしながらバンケットホールを後にした。
階下に降りると、玄関脇で芳名帳を捲っていた秘書の北川と鉢合わせてしまった。
「もうお帰りになるんですか」
「いいだろう。 ちゃんと顔は出した」
「もう少しいて下さらなきゃ困りますよ」
「明日締め切りだし、それがなくても家でゲームやってた方がマシ」
「智秋さん、お願いしますよ。 祈津さんもなんとか言って……」
北川が振り返ると、祈津の手にはたった今クロークから受け取った智秋のコートがある。
「祈津さん!」
「私は智秋さんの行動を決める立場にありません」
祈津はコートを智秋に着せ掛け、駐車場に飛び出して行った。
停めてあった車の後部座席を開けようとしている彼に、智秋は「前に乗る」と声を掛け、走った。
「渋谷か新宿辺りで何か食べて帰ろう」
「どちらかに決めて下さらないと車を出せません」
右折で赤坂見附へ降りて青山通りを渋谷へ向かうのか、左折して麹町から新宿通りに出るのか。同じ西方向でも道筋が全く違う。
「じゃあ新宿」
智秋は助手席に着くと綺麗に整髪してあった頭を手櫛で崩し、ネクタイを外して後へ投げた。
「前に行った水餃子の美味い店にしよう」
ホテルのありきたりなパーティー料理より、二人並んでラーメンを啜り、餃子を分けあって食べる方がいいに決まっている。
四谷まで来たところで、祈津の携帯が鳴った。着メロから、彼の手足となって動いている誰か、もしくは雇っている情報屋の類いらしいというのが分かった。智秋は勝手に彼のポケットに手を突っ込んでそれを取り出し、耳に押し当ててやった。
その間に車は進路を変え、迎賓館正面にある若葉東公園脇に滑り込んで止まった。
祈津はごく一部の身内以外には素顔を見せない。いつどこで誰に対しても礼を失せず、それでいて全てが事務的で、喜怒哀楽が欠如した受け答えで通す。電話も然りだ。
しかし、それが突然途切れた。
何事かと智秋が肩を掴んで自分の方を向かせて見ると、祈津の目には狼狽の色が浮かんでいる。
「どうした」
祈津は逡巡し、電話の相手に引き続き調べて欲しい旨を伝えて切った。
「麻生の新しい仕事が決まったようです」
どこか上の空のような物言いで、彼の脳裏に映し出されているのは目の前にいる自分ではなく、麻生史朗の顔なのだろうと智秋は思った。
「何か問題でも?」
「彼は…… 失敗します」
祈津は独り言のように呟くとシートベルトを外し、「申し訳ありませんが煙草を一本」と言って車を降りた。
何を根拠として史朗がその新しい仕事に失敗するというのか、智秋は考えようともしなかった。瞬時の計算の上の判断か、或いは直感でそう言っただけなのかは分からないけれど、失敗すると言うのなら現状が変わらない限りそうなるだろう。祈津はそういった事を見誤る男ではない。
智秋は麻生史朗が好きだ。但しそれは兄のように慕っているという意味であって、今はそれ以上でもそれ以下でもない。家族の安否を気遣うように史朗の事を心配している。だからこの祈津の言葉に心穏やかでいられよう筈もなかった。危険な仕事を引き受けると聞けば、そんなものは断って欲しいとも思う。
しかし今、智秋を不安な気持ちにさせているのは史朗ではなくて、目の前にいる祈津の方だ。
彼が智秋の処に来るにあたって、犠牲にしたものは少なくない。それまで忍耐の上に築いて来た社会生活を、全て反故にするという決断が如何程のものか、智秋も考えない訳ではなかった。しかしだからこそ、この男は動揺したり迷ったりする姿を見せてはいけないし、そうして来たのではなかったのか。彼には常に頼れる存在でいて欲しかった。
今、もしも自分と史朗が窮地にあって、祈津が命に代えても一人しか助けられないとしたら――
間違いなく自分の手を取ってくれるだろう。これは是非を問う以前の結論として既に出ており、智秋の勝手な夢想や希望ではない。だがそれと、史朗の失敗を予見すると同時に祈津の上を掠めて行った某かの思いは、恐らく別の次元の話なのだ。
今日に至っても尚、史朗が祈津を揺るがせる存在であるというショック。それをどう捉えて良いのか分からない自分の未熟さ……
智秋は車を降り、祈津の隣に並んだ。
祈津の手にある煙草は長い灰を頂いていて、今しも彼の指を焼こうとしている。
「火傷するよ」
彼は溜め息を漏らし、一度だけ大きく吸ってから携帯灰皿で消した。
「麻生の今度の仕事は、旭コーポレーションの社長令嬢の身辺警護です。 詳細は追って届きますが、隣家に住み、Vの高校へは臨時教員として入るようです」
「それは…… 」無茶な話だと思った。
史朗は馬鹿だ。意地を張るにも程がある。
「俺達に出来る事は?」
「ありません」祈津は智秋の目を見て、きっぱりと言い切った。
「人を内側から変えるのは難しい」
智秋は頷くしかなかった。
麻生史朗に平安が訪れなければ、祈津は真に救われない。祈津が救われなければ、自分が満たされる事もない。そう結論付けて、智秋は自分のエゴに辟易した。
「お待たせしてすみませんでした。 行きましょうか」
「え、」
「食事して帰るのでしょう?」
「ああ、そうだった。 水餃子だ、水餃子!」
祈津は少しだけ笑ってから車に乗り込もうとし、ふと空を見上げた。智秋もそれにつられて上を見る。
冬空に、下弦の月が輝いていた。
2007.05.28