サイト3周年記念企画 '07.07.17~07.31限定公開 再録 07.12.22
夢の中にいる。
昴流にはそれが分かっていた。
これは皇を継いだばかりの、まだ九つか十の頃の自分だ。
そして目の前には市松人形。
― すばるちゃん。
人形だと思ったのは着物姿の美しい子供で、大きく切れ上がった眼を昴流に向けている。
― お花、きれいね。 いっぱいね。
幼くとも怜悧な印象であるのに、その口調は幼く、まるで言葉を憶えたばかりの赤子のようだ。
改めて見れば、その子は揃いの赤い着物を着た人形を左腕に抱いている。
式服の袖を引かれるままに、昴流は並んで歩き始めた。
覚束ない歩みに合わせて、被布の房飾りが左右に揺れる。
あまりの頼りなさに昴流が手を差し伸べると、その子はにっこりと笑って昴流の手をとった。
人形などではない証拠に、小さな手はほんのりと暖かい。
そうしてまた嬉しそうに笑うと 「あっちのお花……」 と先を促す。
なんて綺麗な子なんだろうと思っていると、その口から「きれいね」と鈴の音のような声が零れた。
― すばるちゃん、きれいね。 お花といっしょね。
「えっ…… 」
― すばるちゃん、おっきくなったら、お嫁さんなる?
言葉は不明瞭な上に、意味を取り違えているとしか思えない。
「僕は男だし、お嫁さんにはなれないんだよ。 あのね、ええと…… 」
昴流の言葉も、どこまで理解出来ているのか定かではない。
「どちらかと言うと…… 逆、かな? 君がお嫁さんになるの」
その子は不思議そうに目を細め、首を傾げて自分を指した。
― お嫁さん、なるの?
「そう。 君が、誰か素敵な人のお嫁さんになるの」
― じゃあ、おっきくなったら ……ちゃんは、すばるちゃんのお嫁さんになる。 お約束よ。
――お約束よ。
星史郎は、大切な昴流との時間を奪うFAXが嫌いだ。今もまた、その無粋な機械は一枚の紙を吐き出した。見れば世田谷の一角を記した地図で、仕事先への懇切丁寧な道順が示されている。いっそ丸めて捨ててやろうかとも思ったが、それを知ったら昴流は怒るだろう。
そんなことを考えていると、まだ少し眠そうな顔をした昴流が寝室から顔を出した。
「昴流君、おはようございます」
「おはようございます、星史郎さん」
挨拶は返して来たものの、まだ半分は夢の中にいるような顔をしている。
「どうなさいました、頭でも痛いんですか?」
昴流は無意識に目を擦っていた手を止め、小さく笑った。
「子供の頃の夢を見たんです。 僕、とても愛らしい女の子に求婚されたんですよ」
「それは聞き捨てなりませんね。昴流君は僕のものなのに」
「僕もまだ子供で…… まるでお人形のような、とても綺麗な女の子でした」
そう、あれは京都の皇の家の庭だった。 と言う事は、依頼者が連れて来たに違いない。あの子はいったい誰だったのだろう?
普通なら幼稚園に通っているくらいの年頃に見えたけれど、言葉が不自由そうなのも変だった。
「昴流君?」
「えっ…… ああ、すみません。 ちょっと気になってしまって。 だって見て来たばかりの映画のように鮮明なのに、その子の名前すら覚えてないんですよ」
「昴流君は、僕だけを見ていて下さればいいんです」
大きな胸に抱き寄せられ、驚いた昴流が身体を捩ると二人の間で紙がくしゃくしゃと音を立てた。
「星史郎、さ…… ん、これ…?」
「今日は昴流君と美味しいケーキを食べに行こうと思っていたのですが、どうやらお仕事のようですね」
「すみません。 でも、それ程時間の掛かるような仕事ではないと聞いているし、きっとすぐに終わります」
昴流は皺の寄ったFAX用紙を広げた。しかし、それを見た顔は急激に曇る。
「どうなさいました?」
「……世田谷って、道が複雑ですよね」
他愛も無い事ですっかり色を失っている昴流を見て、星史郎はにっこり微笑んだ。
「昴流君は相変わらず方向…… いえ、東京は京都の街中に比べると道が入り組んでますからね。 安心して下さい、僕がお仕事の現場までお送りします」
「本当に? あの、でも、ご迷惑じゃ……」
「迷惑だなんて、そんな事はありません。僕は片時も昴流くんのお傍を離れたくないのですから」
星史郎は言うが早いか、昴流の唇を啄ばみ始めた。
「ん、ぁ…… やっ、 駄目……」
「どうして?」
「どう、って。 仕事の前は僕が潔斎してるってご存知でしょう」
「じゃあ、今晩?」
「え、 ええっ?!」
真っ赤になっている昴流を解放する代わりに、星史郎は彼の耳元で囁いた。
「僕を焦らすと、後でどうなっても知りませんよ」
「なっ、何を言ってるんですか。 そんな…… 」
「楽しみですねぇ。 どんな趣向にしましょうか?」
「しゅ…… 趣向ってなんなんですか?! 星史郎さん!」
「……ぅ、」
祈津昌也という男は、滅多な事では人前で感情を顕にしない。だが、心の中で驚きの声を上げる事くらいはある。
彼は大変真面目な人物だ。警察の警護課にいたところをヘッドハンティングされたくらいだから、SPとしての腕もある。けれど危険が差し迫っている訳でもない日常においては、彼の思考回路は極めて一般的な働きに留まってしまうようだ。だから想定範囲を遥に超えるような事柄に出くわした場合、今のように一瞬詰まってしまう。
今朝、祈津は用事があるという智秋に随行して、下北沢のマンションから奈宮家の本宅に赴いていた。そして着いて間もなく、この日の来客が陰陽師だと聞かされて口から漏れ出た声が最前の「ぅ、」である。目の前にいたのが智秋だったから、それで済んだのだろう。この相手がもし元同僚の麻生史朗であったならば、「嘘だろう」とはっきり言葉にしてしまっていたに違いない。
祈津だって、陰陽師がどういうものなのか朧げながら知ってはいた。但しそれは、これまで生きて来た三十年とちょっとの中で得た知識の一端でしかなく、正直なところ、映画や小説で見聞きした程度の‘識っている’と言う意味でしかない。
いま彼の頭の中では、清明や道満といった名前が明滅している。彼らは九字を切って、魔を祓ったりするのではないか? 安倍清明と云えば、千年も昔の人物だ。そう言えば、以前読んだエンターテイメント小説の中では、清明所縁の人物が古書店主で神主で拝み屋で陰陽師もしていた。いや、逆かもしれない。陰陽師が、普段は古書店主で神主で拝み屋だったのかもしれない。そんな事はどうでもいい。 祈津はいま一度、智秋に来客について訊ねた。
「陰陽師が智秋さんを訪ねて来るのですか?」
「訪ねて来るんじゃなくて、畏れ多くも当家まで御運び頂くんだ! おまえも皇様に失礼のないように気を付けろよ」
――陰陽師のスメラギ?
その名は、まだ警察にいた頃に一度だけ耳にした事があった。他にも国会議事堂の下には未来を夢に見る姫がいる、などと言う信じ難い話もあった。ただ、当時それらの事柄について、祈津は個人的に調べたり質問した事はない。自分に下された任務以外に首を突っ込むのは、一直線に左遷に繋がるものと決まっていたからだ。担当外の事は心の中に留め置くとしても、見て見ぬ振りを貫くのが肥大化した組織の中での賢い身の処し方と云うものだった。
しかし今は智秋の専属SPとして雇われている身であり、判らない事をそのままにしてはおいては仕事に差し障りが出るかもしれないと思われた。
「なぜ智秋さんが陰陽師を呼ばれたのか、お聞きしても宜しいでしょうか?」
「それはこの箱を開けて頂く為だ」
智秋はにっこり笑って、テーブル上の古い桐箱を指差した。長辺が八十センチほどもある直方体で、墨で箱書きがなされているものの、余りに達筆すぎて一部しか読み取れない。
「これは?」
「昔、お婆様から頂いたものなんだけど、放っておいたら蓋が開かなくなっちゃって」
「それで、なぜ陰陽師を?」
「ん? だって電気製品が故障したら電気屋に修理して貰うだろう。 それと同じで、古い器物の変異は陰陽師に祓って貰うに決まってるじゃないか」
まるでそれが当然だと言わんばかりに胸を張る智秋を見て、祈津は言葉を失った。
少なくとも彼が育った一般家庭では、電気製品の故障=電気屋までが常識の範囲であった。
「なんだよ? 俺、変な事を言った?」
「いえ。 普通、陰陽師は……」呼ばない。 と思ったが、口には出さない。
智秋の祖母は宮家から降嫁して来たと聞いている。彼が時折見せる浮き世離れした言動はそこに起因しているのだろう。先祖の事など百年も遡ればうやむやになってしまうような庶民とは、端から住む世界が違うと思うしかない。
言葉を濁す祈津に納得がいかないらしく、智秋は切れ長の眼を細め、首を傾げた。
「失礼しました、なんでもありません。 こちらを拝見しても宜しいですか?」
上目遣いに迫って来る智秋を押し留め、祈津は桐箱をそっと検めた。確かに上蓋はびくともしない。まるで接着剤か何かで貼り付いてしまっているかのようだ。
「ご立派なお屋敷ですねぇ」
星史郎は奈宮邸の応接間で、昴流の隣に座って紅茶を飲んでいる。
「こんな本格的な洋館が都内にあるのも、実際ここに人が住んでいるのも、凄いと思いませんか? 何処かから移築したのかもしれませんね。 ねぇ、昴流君?」
本当なら車の中で昴流の仕事が終わるのを待つつもりだったのだが、この家の執事だという老人に半ば無理矢理ここへ通されてしまったのだ。
「このケーキ、美味しいですね。どこのケーキ屋さんでしょう? 後でメイドさんに聞いてみましょうか。 そうそう、本当にメイドさんの格好をしたメイドさんなんて、僕は初めて見ましたよ」
先程から場違いに喋り続けているのは、昴流が仕事を前に精神統一しようとしている事への邪魔に過ぎない。所謂嫌がらせと言うやつだ。もっともこの程度で昴流が仕事をしくじる筈はないので、何の意味もないのは承知していた。
「ねえ昴流君?」
「せ、星史郎さん……」
「はい、なんですか? 昴流君」
鏡なんて見なくても星史郎には分かっている。いま、自分が極上の微笑みを浮かべている事を。
「あのっ、ちょっと」
昴流が何か言い掛けた時、ノック音に続いてドアが開いた。ドアを開けたのは背の高い男だったが、先に部屋に入って来たのはスリーピースをきっちり着こなした少年だ。
「奈宮です。 お待たせ致しました」
少年は主が座るべき椅子の前に立ち、昴流と星史郎を見て軽く頭を下げた。握手の手を出すのに一瞬の間があったのは、緊張のあまり固まっている昴流と、鷹揚に構えた年嵩の星史郎のどちらが皇の当主なのか迷った為だろうか。しかし、すぐに席次が上の昴流に向かって毅然と手を延べる辺り、慌ててティーカップをひっくり返しそうになっている昴流より余程落ち着いていると言える。星史郎は十七、八と判断した第一印象を、いま少し上と訂正した。
二人が儀礼的な挨拶と今回の依頼内容について話し始めたので、星史郎はする事がなくなってしまった。まさかこの会話の腰を折る訳には行くまい。
依頼主の左後ろに立っている男と目が合うと、こちらもまた率なく会釈を返して来る。気配を殺してその場に佇む様子は、よく躾られた番犬か何かのように健気だ。どのくらい訓練されているのか見たくなり、星史郎は立ち上がった。彼がいるのとは反対の側からその主に近付くと、彼も静かに立ち位置を移した。もしあと一歩でも近付けば、音ひとつ立てるでなく間に滑り込んで来るに違いない。及第点くらいはやってもいいだろう。
「これならすぐに開くと思います」と昴流は言うと、それに手を翳し、早々に呪文を唱え始めた。
桐箱は淡い光を放ち、ガタリと音を立てると呆気ないほど簡単に開いた。
中から鬱金染めの包みをそっと取り出し、それを解く。現れたのは、着物の錦繍も見事な市松人形だった。
星史郎でさえつい覗き込んでしまうほど美しい。
「これは良い物ですね。 失礼ですが、どちらから?」
「子供の頃に、祖母から贈られた物です。 ずっと仕舞ったままにしてあったのですけれど……」
「急に気になった?」
「ええ、突然思い出して。 それでこの男にも見せてやろうと……」
「私に?」
忠実なる番犬君が訝しげに主を見た。
「誰かに似てると思わないか?」
「……… 」
「ほらっ、よく見ろ」
「智秋さんに、似ているような……」
「そう、当たり! 日本に帰って来たばかりの俺を手懐ける為に、お婆様が俺に似せて作らせたんだ」
嬉しそうに笑っている依頼主を見て、昴流は息を呑んだ。
「どうしました? 昴流君」
くっきりとした二重の、やや吊り上がり気味で大きな目。
柔らかい線の輪郭と、小振りで形の良い鼻と口。
今朝の夢に出て来た女の子を、そのまま大人にした顔が目の前にある。
「……人形を抱いた、女の子」
「すばるちゃん?」
人形が喋ったような錯覚に陥り、昴流は軽く頭を振った。
「すばるちゃんですよね?」
「あの…… 僕は以前、お会いした事が?」
「はい。 幼い頃、京都の皇様のお屋敷に伺った事があります。 代替わりなさったと聞いてはいましたが、すばるちゃんが御当主にお成りとは存じませんで、先程は大変驚きました」
「奈宮、智秋さん…… ともちゃん?」
「はい。 毎日多くの依頼人に会っているのに、憶えていて頂けるとは思ってもいませんでした」
智秋は人形を抱いたまま笑って言った。
「……僕のこと、すぐに分かりました?」
「十五年前と全くお変わりないので」
「君が昴流くんに求婚した、人形を抱いた女の子でしたか」
星史郎が智秋と人形を見比べながら感心したように言った。
「小学校に上がるまでは、いつも女の子の着物を着せられておりましたので、たびたび間違われました」
「智秋さん、この方に求婚なさったんですか?」
来客中にしては珍しく祈津も口を開いた。
「だって、すばるちゃんがあんまり綺麗で可愛らしかったから、俺のお嫁さんになって貰おうと思ったんだけど…… まだ帰って来たばかりで日本語がよく分からなくて」
「お二人とも、相手が女の子だと思っていたんですね。 ね、昴流君。 おや、どうなさいました?」
仕事が簡単に終わり、懐かしがってくれている人までいるというのに、昴流はひとり打ち萎れている。
「僕、十五年経っても変わってないって、大人になりきれてないってことでしょうか…… 彼はあんなに立派に成長してるのに」
「まぁ、そこが君の良い所でもあるんですから」
昴流を宥めていると、智秋が星史郎に向かって人形を掲げた。
「あのう、ところでこの人形はこの後はどうしたら良いでしょう? 何か特別にしなければいけない事はありませんか」
「ああ、それはやはり箱に入れたままではけいません。 人形というのは文字通りヒトガタです。 それなりに扱ってやらなければ拗ねますよ。 それにこの子には、あなたというモデルがちゃんといますからねぇ」
「そうですよね」
智秋は納得したように頷くと、人形を祈津に押し付けた。
「じゃあ、これはおまえが毎日着物を着替えさせて、髪を梳いてやれ」
「………なぜ私が。 これは智秋さんの物でしょう」
「俺は自分そっくりの人形を愛でるほどナルシストじゃないの。 だからおまえが世話をしろ」
「この上、人形の面倒まで私が見るのですか?」
「この上ってなんだ? まで、ってどういう意味だ!? 俺の人形に文句があるのか?」
楽しそうな二人を尻目に、星史郎は昴流の肩を抱いた。
「では、僕達はそろそろ失礼しましょうか」
「星史郎さん…… ちょっと待って下さい」
昴流は星史郎の腕を擦り抜けると、今朝見た夢と同じように智秋の前に立った。
「いま、幸せですか?」
――始めから行き違ってしまっていた約束。
「ともちゃんは、いま幸せ?」
「ええ、まぁここへ来るまで色々あったけど、いまは。 すばるちゃんは?」
「僕も…… いまは」
振り返ると、星史郎が微笑んでいる。
「今日はすばるちゃんに会えて良かった。 人形も手元に戻ったし…… ありがとうございました。
ごきげんよう、お元気で」
別れの握手は昴流から出した。
「お元気で、さようなら」
握り返された手は、ほんのりと暖かかった。
サイト3周年にあたり、無理を承知でやってしまった期間限定企画です。
テーマは‘越天楽の2枚看板、昴流くんと智秋をどうしても同じステージに立たせたいの!’ でした。
あっちもこっちもイタイ所だらけですが、この機会を逃がすと完全にお蔵入りしそうだったので、公開する事にしました。 どうか寛大なお心で、この我儘を笑ってお許し下さいませ。
星史郎×昴流+祈津×智秋なんて4人の顔合わせは、恐らく日本中(という事は実質世界中?)探してもウチだけなのではないかと思います。
*その後、意外にも多くの方々に「再録は?」とのご質問を頂けたので、このたび再録に踏み切りました。
<おまけ> どうでもいい年齢差メモ。
星史郎さんを基準にすると、祈津-1歳、昴流くん-9歳、智秋-13歳くらいです。
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