花屋になど寄るつもりは無かったのに、昴流はその明るい店先で立ち止まってしまった。
店内のガラスのショーケースは、彩り豊かな薔薇で埋め尽されている。
その時昴流の目を惹いたのは、派手な紅やピンクのものではなく、薄いベージュ色の薔薇だ。
例えるならばミルクティーに近い色。
覗き込んでいると、若い店員に話し掛けられた。
「プレゼントですか?」
「は、はい」
咄嗟に返事をしたものの、その後の答えに窮してしまう。
考えてみれば、今まで花など買った事は無かった。
リビングに観葉植物くらいは置いているけれど、男が二人で暮らす部屋に
切花を飾る事まではしていない。
― ご用向きは? ご予算は?
立て続けに聞かれて困惑していると、その女性店員は 「恋人に告白かしら?」 と微笑み
ショーケースを開けた。
昴流の足元を、冷気がサッと過ぎる。
「可愛らしい感じが宜しいかしら。 それとも…」
彼女はピンク系の花に手を伸ばしていた。
「あの、これを…」
自分の頬が赤く上気して来るのを感じながらも、昴流は辛うじてミルクティー色のバラを指差した。
「こちらを?」
「ええと、これを… 1ダース」
店員は元々お喋りなのか、或いは昴流が気に入ったのか
バラを1本ずつ丁寧に抜き取りながら、昴流に話し掛けて来る。
「これ1色でのご注文は珍しいんですよ。 一見、地味なお色ですから。
混色のアレンジなどには使われるんですけどね」
「あの、おかしいですか?」
「いいえ、シックで素敵です」
その言葉に、昴流はほっとした。
手際良く花束を作り上げて行く手を、半ば感心しながら見ていると
「必ずお気持ちは伝わりますわ」と、小さな声が聞こえた。
言葉の意味を捉えかねて昴流が顔を上げると、ベージュとダークブラウンのサテンのリボンが
するすると目の前を通り過ぎて行った。
花束を抱えて雑踏に戻る。
時間を確かめると、星史郎との待ち合わせまで10分を切っていた。
遅れないよう早目に出たと云うのに、また遅刻だ。
「明日の夕食は、外で摂りませんか」と、星史郎が言い出したのは
昴流が提出期限の迫ったレポートを書き上げ、疲れと眠たさでボーッとしていた時だ。
「いいですよ」
深く考えもせずに頷くと、星史郎がソファで手招きしているのが見えた。
テーブルの上の資料はそのままにして傍まで行く。
「昴流君は、何が良いですか?」
隣に座らずに立ったままでいたら、優しく両手を捕られた。
いつも星史郎を見上げているので、逆はとても不思議な感じがした。
「うん… この前は和食でしたよね? その前が確か焼肉で… じゃあ、洋食か中華かな?
僕は何でも良いです。 星史郎さんが決めて下さい」
笑顔はいつもと変わらないのに、なんだか今夜の星史郎は違う気がする。
「どうかなさいました?」
「いいえ。 よくお勉強をなさっているので、ご褒美でもと思いまして」
「もうっ 子供扱いしないで下さい」
わざと子供っぽく怒って見せると、星史郎も嬉しそうに笑った。
「適当な店を予約しておきます。 では、7時に新宿で」
ビルの壁面に取り付けられたカリヨン時計が、約束の時間を告げている。
信号に阻まれて地下通路への階段を駆け下りると、そこも人がいっぱいで
とても走れるような状態ではなかった。
5分ほど遅れて待ち合わせ場所に辿り着くと、星史郎が当然のように待っていた。
「ご、ごめんなさい」
「地下鉄でいらっしゃると思っていました」
星史郎が、昴流が来たのとは別の方向を指差している。
「え、あ、あの、一駅間違えて、三丁目で降りちゃって…」
「昴流君、新宿に何年住んでいらしたのか聞いてもいいですか?」
「え、と… と、とにかく、遅れてすみません」
くすくすと笑われて、また頬が熱くなる。
「ところでその花は?」
「あのっ、別に何でもなくて。 えっと… 綺麗だなって、それでなんとなく買ってしまったんです」
「そう、それなら別に良いんですけど」
何が良いのだろうと星史郎をを見上げても、ただ微笑むばかりで理由は教えてくれない。
これから食事に行くというのに、遅刻をしてまで花を買うなんて非常識だったかもしれない。
そう思いながら、俯き加減で星史郎の隣を黙って歩く。
「綺麗な色ですね」
星史郎が気を使ってくれている。
そう思うと情けないけれど、ここで気落ちしていては悪循環だ。
出来るだけ笑顔で応えるように努力してみる。
「ええ、ミルクティーみたいな色でしょう?」
「僕はね、カフェオレだと思った。 落ちついた色で、昴流君に似合いますよ」
「店員さんがね、『恋人に告白ですか?』だって…」
笑ってくれると思っていたのに、一瞬の沈黙の後、じっと見つめられてしまった。
「して下さるんですか? 告白」
「え? なっ… 星史郎さんっ! 何を考えているんですか?!」
「それはもう、善い事を」
二人が外で食事をする機会は多いが、普段は気取らない店が多い。
しかし今日は、星史郎に案内されたフレンチレストランの前で、昴流は困惑して立ち止まった。
「どうなさったんですか?」
そう言う本人は、いつもスーツだから問題無い。
「星史郎さん、僕、ネクタイなんて持って来てませんよ」
恨みがましく見上げたが、笑われただけだった。
「大丈夫ですよ、さあどうぞ」
ジーンズでないのがせめてもの救いだ、と思ったところで
今着ている服は、今日の朝、星史郎が選んでくれた物だと気付いた。
星史郎と一緒に、アペリティフとアミューズを楽しみながら料理を選び始める。
フランス料理の場合、いつも星史郎はここに時間を掛ける。
「こう云うお店だったら、始めから教えておいて頂かないと困ります」
小さな声で言ってみたが、全く相手にして貰えない。
「どうしてですか、フランス料理は嫌いじゃないでしょう?」
ワインとフロマージュのリストは星史郎に任せ、昴流はメニューを閉じた。
昴流は人と話しをするのは苦手だけれど、相手が星史郎なら、それはいつだって楽しい。
もっとも、しゃべるのは昴流ばかりで、星史郎は聞き役に回る事が多い。
食事も終わりに近付いた今は、週末に二人で観た映画の話が一区切りついた所だ。
「昴流君は綺麗に食べますね」
今度は何の話しかと、デザートスプーンを持った昴流の手が止る。
「なんですか?」
「食事の仕方で育ちが判るって事です」
「…もう、そうやって僕をからかわないで下さい。 食べられなくなってしまうじゃないですか」
「本当の事ですよ。 こう云った事は、日常の何気ない所作で判るものです」
星史郎が昴流をからかって楽しむのはいつもの事だけれど、やはり昨日から少し変だ。
「星史郎さん、僕に何か隠してません?」
「どうしてですか?」
「なんとなく、そう思っただけですけど…」
「ええ、お話していない事ならありますよ」
こういった星史郎の微笑みからは、その内側に隠されたものまでは透けて見えない。
「聞いたら、答えて下さいますか?」
「良いですよ、今日は特別です。 どれをお話ししましょうか」
「そんなに沢山あるんですか?」
「ええ」
隠すつもりは無くても、昴流だって星史郎に話していない事はいっぱいある。
逆なら、尚更だろう。
「差し支えなかったら…」
「改まって何ですか?」
「仕事の後、何処にいらっしゃるのかと思って。 いつも、すぐには戻られませんよね」
二人で暮す部屋とは別に、星史郎が帰る場所があるだろう事くらい、一緒にいれば判る。
一度口に出してしまった以上、本当の事が知りたい。
「僕のマンションですか? この近くですよ」
拍子抜けするくらいに、あっさりと答えが返って来た。
「やっぱり新宿だったんですね。 でも、どうして…」
「昴流君は、以前よりずっと敏感になっているでしょう。 血の穢れは良くないと思いまして」
「だから、すぐに帰って来ないんですか」
「先日、ついに禁を犯してしまいましたが」
確かにあの時は、色々な意味で昴流のダメージは大きかった。
「僕なら大丈夫です。 これでも、解って一緒にいるつもりです」
そう、独り言のように言うと、昴流の目の前に名刺が差し出された。
受け取って、名刺と星史郎の顔を交互に見て笑う。
すると星史郎も 「ペーパーカンパニーですけど」と、笑った。
「これ、星史郎さんが代表になってますよ!
お話のマンションって、この住所ですか? ここに僕も行っても良い?」
「それはダメ」
「じゃあ、これだけでも下さい」
指に挟んだ名刺をヒラヒラさせると「それもダメ」と言って取上げられた。
重くなり掛けた空気が和んでほっとする。
「他は?」
昴流はスプーンの先で、アイスクリームの上の繊細な飴細工を崩しながら聞いた。
「欲張りですね」
「本当に僕が気付いていない事を、あと一つで良いから」
そう言って目を上げると、星史郎はケーキを口に入れたところだった。
「 …そうですね。 じゃあ、あのバラの花束を僕に下さったら、あと一つだけお教えします」
「差し上げます!」
即座に答える。
「本当に?」
「ええ、星史郎さんにプレゼントします」
元々、何か必要に迫られて買ったものではないし、それは昴流にとって容易い事だ。
食事の後、昴流の酔いを覚ます為に、少し散歩をしてから帰る事になった。
都庁の下を通り、人通りの少なくなった道を、中央公園に向けて歩く。
「星史郎さん、さっきの続きは?」
「ああ、僕の秘密?」
「そう、この花を差し上げますから。 そんなに勿体付けないで下さい」
「実は今日、僕の誕生日だったんですよ」
星史郎の言葉に驚いて立ち止まる。
「…えっ?」
「僕の本当の誕生日です。 …もしかして、今まで四月一日だと思っていたんですか?」
「は、い…」
意外な答えに、昴流は言葉も出なかった。
「まさか、あれをまだ信じていたなんて。 その方が信じられない」
「だって、星史郎さん、教えてくれなかっ…」
星史郎に呆れたような顔をされて、昴流は泣きそうになった。
「そんな顔をしないで下さい。 弱りましたね」
「なんで教えてくれなかったんですか! 知っていたら、ちゃんと何か考えたのに。
プレゼントだって、用意、したの…に…」
「だからその花を、ね?」
昴流の頬を伝って涙が落ちた。
「このくらいの事で泣かないで下さいよ」
「酷い! 星史郎さんは、いつも…そうなんだから… 」
「祝って下さらないんですか?」
昴流は下を向いたまま、押し付けるように花を渡して後ろを向いた。
「…お誕生日、おめでとうございます」
「どうもありがとう」
肩を抱かれると、また涙が溢れ出した。
「さっき、昴流君が待ち合わせ場所に花束を抱えて走って来た時、
なんで僕の本当の誕生日を知っているんだろう、と驚きましたよ」
「そんなの… 偶然、です」
「でも、とても嬉しかった。 僕はね、誰かと誕生日を過ごすのは、今日が初めてなんです」
見上げると、そこには星史郎が真面目な顔をして立っていた。
「僕の誕生日なんて、母しか知りませんからね。 彼女は僕を愛してくれていたけれど
何かを祝うなんて事をする人ではなかった」
「星史郎さん…」
昴流の腕に花束が返って来て、今度はそれごと後ろから抱きしめられた。
「ですからこの花は、僕が生まれて初めて手にする誕生日プレゼントなんです。
ありがとうございます。 昴流君」